尾張屋

ストーリーは機械には作れない。自分の中にストーリーを見つけよう

なぜ人は優れたストーリーに心が動かされるのでしょうか。

すべてのストーリーは極論すると、「作り上げられた環境や圧力」VS「そこから自由になりたい情熱」のぶつかり合いによって生まれます。

極めて人間的な都合同士のぶつかり合いなので、これから様々な分野で自動化が進んでいくとしても、ストーリー作りはアナログでし続けられるでしょう。

ですから、これからの時代を生き残るには、リアルだとしてもフィクションだとしても、ストーリーを見つけられるかが鍵になるだろうと思います。

ストーリーとは

私たちには、生きていく中でいろんなしがらみがあります。

そうしたしがらみから逃れたいと誰もが思い、その情動が、私たちを動かします。

その動いた軌跡は、物語となって私たちの後に残ります。

だから、ストーリーとは、フィクションであれノンフィクションであれ、私たちの生き方そのものを代弁したものです。

ストーリーの基本的な構成は、「何かが足りない主人公」が「その足りなさを生んだ環境や圧力」に対して「戦いを挑む」ということです。

私たちは、現実の世界で毎日何かの問題にぶつかっています。それは小さなものかもしれませんが、元をたどればその小さな問題を無数に生み出している大きな問題があるはずです。

たとえば、ブラックな会社に入ったから毎日辛い出来事が起こるとか、自分がバカなせいでいつも失敗するとか。

ストーリーでは、主人公がいくつもの小さな困難にぶつかりながら、最終的に大きな問題を乗り越えて、すべての状況がクリアになる、というのが一般的ですが(バッドエンドの場合は逆)、途中でぶつかる小さな問題は、いつも根本の大きな問題から出てくるものです。

私はゲームが好きだったのでゲームのたとえをすると、ラスボスがいるから雑魚キャラは無数に現れます。

FF10でいうなら「シンのコケラ」のようなものです。

悪の根源である『シン』を倒さなければ「シンのコケラ」は無数にでてきますよね。

……。

この「もともとの大きな問題」を解決することが、ストーリーにおける主人公の最終目的です。

「もともとの大きな問題」は、世界の中にすでに存在しています。主人公はその世界に放り出されて、問題解決に向けて走り出します。

その中で何度も「シンのコケラ」のような小さな問題と戦いながら、最終的に『シン』と総力をかけて戦います。これがストーリーのクライマックスです。

ゲームの場合は、こうした問題が必ず悪人ヅラをしているのでわかりやすいです。

しかし、実際にぶつかる問題は悪人ヅラをしていることがほとんどありません。

たとえば、今ではブラックな体質は問題であるというのが当たり前の認識になっていますが、もともとあれは「モーレツ」と呼ばれ日本の高度成長を支えてきた行為でした。

不思議ですね、かつて英雄視されていた価値観が悪者視されるというのは。でも現実ってそういうものです。

だからブラック企業に勤める人が、「あのくらいでへこたれるなんて根性がない」というのは彼らの価値観では自然なことです。古い価値観ではありますが。

そういうわけで、悪が悪人ヅラをしていることはありません。

また、ドキュメンタリーやヒューマンドラマで題材になるようなストーリーにも、これといった悪が出てきません。

そこに出てくる問題は「自分の勇気のなさ」とか「自分の足りなさ」「不遇な環境」といったもので、それが悪ではありますが悪人ヅラをしているわけではありません。

つまりストーリーとは、古くて自分の世界を覆っている既成の状況と、そこから自由になって新しくしようとする活動とのぶつかり合いです。

立場の違いはあれど、「既成」VS「新しいもの」の構成は変わりません。

だから、どんな人であったとしてもその中に大きな物語のタネがあります。