尾張屋

才能の差は車種の違いで努力の差はドライバーの違いのようなもの

成功するために才能が必要か努力が必要かと語られることがあります。

この論争に一つの結論を出すことは難しいかもしれませんが、私の考えは「どちらも必要」です。

「努力は第二の才能」と言われることがありますが、努力したことが自分の血肉となり才能になることは十分にあり得ることです。

圧倒的な才能の差がある場合は努力では埋められない壁があるのは確かですが、いくら才能のある人でも自分が何もしなければ才能のない人に負けることもあります。

これは例えるならフェラーリを持っている人でも運転をしなければハイエースで全力で走る人に負けるということです。

もっと単純な例を言えば、ウサギも走らなければカメに負けるということです。

だから才能と努力は車とドライバーのような関係であり、どちらも欠かすことができません。与えられた車がどんなものかは自分には決めることはできません。しかしそれを見てどう使うかは自分次第です。

自分に与えられた車がハイエースだった場合に、「こんな車じゃ競争しても勝つことはできない。一生フェラーリの後塵を拝んで生きる人生か。」と考えるのか「中にモノいっぱい入るじゃん。フェラーリってのは中がずいぶん狭いんだな。」と考えるかで努力する方向も成功する確率も変わってきます。

世の中には、才能があるにもかかわらずそれを本人が自覚しておらず努力をしていない場合もあります。

もし自分の考え方のせいで自分の才能を閉ざしてしまっているとしたらもったいないことです。何もできないという人は1人もいません。こう言うと失礼ですが、たくさん食べられるという理由だけでユーチューブで成功したりフードファイトの本番アメリカに渡って多額の賞金を稼いでいる人もいます。

「やればできる」ということはたくさんあります。むしろ一つのことに才能のある人は他のことには向いていないことが多いです。将棋の羽生さんがフィギュアスケートができるかというと違います。同じなのは「羽生」という名前の漢字だけです。どちらがより才能があるとは比べられません。そうした才能の差は、競うものではなくてお互いに補い合う関係であろうと思います。