「若者たちに議論をふっかけては惑わして、良からぬ道に導いている。」として死刑になった古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』。
ソクラテスは人を説得する天才だった。ソクラテスと議論をすると必ず論破される。なのに悔しくない、ばかりか、自分の無知に気づかされて、より良い考えへの道を開いてくれる。
これがソクラテスの若者に支持された理由であり、世の権力者には恐れられ死刑にされた理由でもある。
ソクラテスは、どのような方法で議論に勝ったのだろうか。今回は、正しい議論の方法を、ソクラテス先生に学びたいと思う。
ソクラテス式問答法は「柔よく剛を制す」戦い方
普通、議論が白熱してくると、何が何でも相手を論破したくなる。しかしこれは水掛け論というやつで、続ければ続けるほど泥沼にハマり、結論が出ない。
デール・カーネギーはこう言った。
議論は、ほとんど例外なく、双方に、自説をますます正しいと確信させて終わるものだ。
『人を動かす』
ただ熱くなって相手の言うことに真っ向から反対していくのは、まるで戦争で相手の城を正面から攻撃するようなもので、賢い方法とはいえない。相手は守りを固めやすいから、こちらは総力戦を仕掛けなければならず、死骸の山を築くことになる。
兵法書『孫子』にはこう書いてある。
兵者詭道也、故能而示之不能、用而示之不用、近而示之遠、遠而示之近、利而誘之
(軍事の基本は敵を欺くことだ。だから能力があっても無いふりをし、勇気があっても無いふりをし、近くても遠いように見せ、敵にとって利益があるように見せて誘いこむ。)
ソクラテスのやり方は、「柔よく剛を制す」やり方だった。「私は何も知らない、だから教えてくれ。」と前置きして相手の考えを引き出し、その考えに質問を投げ続けることで、相手を「グウの音も出ねえ」状態にしてしまい、さらに深い思索への探求を促す。グウの音も出ねえ状態を哲学では「アポリア」という。
デール・カーネギーはソクラテスのやり方をこう評している。
ソクラテスは、相手の誤りを指摘するようなことは、決してやらなかった。いわゆる”ソクラテス式問答法”で、相手から”イエス”という答えを引き出すことを主眼としていた。まず、相手が”イエス”といわざるをえない質問をする。つぎの質問でもまた”イエス”といわせ、つぎからつぎへと”イエス”を重ねていわせる。相手が気づいたときには、最初に否定していた問題に対して、いつの間にか”イエス”と答えてしまっているのだ。相手の誤りを指摘したくなったら、ソクラテスのことを思い出して、相手に”イエス”といわせてみることだ。
『人を動かす』
こう聞くと、何か狙った答えに誘導するような詐欺めいたことをしていたかのように思えるが、そうではなく、ひたすら質問を繰り返すことで相手の考えを相手自身で吟味するようにさせるのだ。
ソクラテスの目的は、相手が「俺って何もわかっていなかったんだな。」ということに気づいてもらうことだ。この状態を哲学では「無知の知」と呼ぶ。ソクラテスのこの手法は、相手が自ら考えを生み出すことを手伝う「産婆術」であると、ソクラテス自身が呼んでいる。
ソクラテスが議論している様子を見てみよう
以下は、ソクラテスの実際の対話を記録した『ラケス』から抜粋、超訳したものだ。注目は、ソクラテスが質問しかしておらず、それによって相手がいつのまにか降参している点だ。
(ソクラテスが知り合い数人と武闘術の演舞を見に行った帰り道でのこと。「息子たちに武闘術を学ばせるべきか」という話をしていたのが、いつの間にか「勇気とは何か」という議論に。)
対話の内容をまとめると、以下のようになる。
1.ラケスが、「敵から逃げない人は勇気がある」から「勇気とは忍耐強さだ」を主張する。
2.ソクラテスが質問をしながら、「勇気は立派なものであること」ならびに「知恵のない忍耐強さは勇気とはいえない」ということの同意を得る。
3.さらにソクラテスは、「知恵ある忍耐強さ」も勇気があるとはいえないことの同意を得る。
4.ラケスの主張が矛盾していることがわかり、グウのねもでなくなる(アポリア)。ラケスは「勇気について分かっているはずなのに、今分からなくなった(無知の知)」と言う。
5.ソクラテスが「じゃあ、探しに行きましょう」とラケスを励まして(産婆術)、二人の対話は終わっている。
話し上手な人は、まず相手に何度も”イエス”といわせておく。すると、相手の心理は肯定的な方向へ動きはじめる。これはちょうど、玉突きの玉がある方向へころがりだしたようなもので、その方向をそらせるには、かなりの力がいる。(中略)
それゆえ、はじめに”イエス”と多くいわせればいわせるほど、相手をこちらの思うところへ引っ張って行くことが容易になる。『人を動かす』
おわりに
対話篇『ラケス』では、上記のラケスとソクラテスの対話が終わった後、ニキアスという軍人がソクラテスと対話を始める。ニキアスはソクラテスとは何度か議論を交わしたことがある仲で、いつも振り回されている。そんなニキアスの達観した一言が印象的だ。
誰でもソクラテスの間近にあって対話を交わしながら交際しようとする者は、たとえ最初は何かほかのことについて対話をはじめたとしても、彼に議論によって引きまわされ、ほかならぬ自分自身について、〈現在どのような仕方で生きており〉、また〈すでに過ぎ去った人生をどのように生きてきたのか〉について説明することを余儀なくされる羽目におちいるまでは、けっして対話を終えることができないのだということをです。
結局、この対話篇では「勇気とは何か」は明らかにならずに終わる。ソクラテスの議論の目的はいつも、自分自身について考えるようすることだったから、相手が「俺は何もわかってなかった」ことに気づいた時点で、それ以上「勇気とは何か」について話す必要は無い。
そんなソクラテスの弟子はプラトン、プラトンの弟子はアリストテレスである。アリストテレスは現代の欧米文化を築く力となった「弁論」について、その基礎を固めている。
説得力は「話の内容」「聞く人の気分」「話し手の人柄」で決まる
ちなみに、勇気とは何かについてあえて答えるなら、僕は『孫子』の一節、「勇敢とは勢いである」がしっくりくる。
乱生於治、怯生於勇、弱生於強、治乱数也、勇怯勢也、強弱形也
乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は強に生ず。治乱は数なり。勇怯は勢なり。強弱は形なり。
混乱は整治から生まれる。おくびょうは勇敢から生まれる。軟弱は剛強から生まれる。〔これらはそれぞれに動揺しやすく、互いに移りやすいものである。そして、〕乱れるか治るかは、部隊の編成 ー分数ー の問題である。おくびょうになるか勇敢になるかは、戦いのいきおい ー勢ー の問題である。弱くなるか強くなるかは、軍の態勢 ー形ー の問題である。〔だから、数と勢と形とに留意してこそ、治と勇と強が得られる。〕
新訂 孫子 (岩波文庫)
もちろん、これをソクラテスの前で主張したら、反論されるに違いない。