地球には70億もの人がいます。見た目も様々ですが、それより考え方が様々です。特に最近は、過激な考え方が目立っています。
ドナルド・トランプにしても、中東の誰かさんにしても、北朝鮮のアナウンサーにしても、とにかく日本人からしたら「なんでいつも怒ってんの?」と言いたくなるような姿がテレビに映し出されることが多くなりました。
日本はそれらに対して、警戒はしているけれども「具体的にこうする」という姿勢は打ち出していません。日和見的な立場です。人間の大腸には善玉菌と悪玉菌と日和見菌がいますが、日本は日和見菌です。
世界では、善玉菌なのか悪玉菌なのかわからない人たちが叫んでいます。
これからどうなるかわからないから、日和見菌は立場を決めかねているところです。
しかし日本人はもっと自分の意見を持ってアピールしなければなりません。
人気Youtuberのバイリンガールさんも主張することの必要性を語っています。
今は「国際化」なんて言葉が古いくらい海外が身近になっています。テレビで海外を紹介する番組がとても多くなったし、日本への外国人観光客はどんどん増えています。私が住んでいる新宿区でも街中を歩けば海外の方をよく見かけるし声が聞こえてきます。
いいんだか悪いんだかは別にして、彼らから学べるのは「主張する」という姿勢です。世界中の多くの人はしっかりした自分の意見を持っています。
彼らの意見をそのまま受け入れるわけにはいかないにしても、彼らがどういう理由でその意見を持つようになったのかは学べることが多くあります。
「自分の意見を持つ」ということがどういうことなのかを、自分とは全く違う考え方を持っている人たちを通して客観的に理解することができます。
アラビア圏の考え方
世界を見渡せば、「同じ事実なのに解釈が違う」ということが多くあります。
ツイッターでは、アラビア語で書かれた日本人の悪口が翻訳されて拡散されていることがあります。
それが「日本をぶっ飛ばす」とか「呪ってやる」といった幼稚な悪口と思いきや、日本のこと、世界のこと、歴史のことをよく勉強した上での知的な指摘だったりします。
私の中では、今まで『中東』というと「ターバンを頭に巻いて笛を吹いた人が蛇を操ってる国」、そんなイメージが強くありました。ディズニーの『アラジン』を見ていたくらいまではそうでした。
しかし彼らも日本人と同じ人間であり、きちんとした考えをもっています。その上で日本を非難し、特にアメリカを非難しています。
彼らが正当化する「聖戦」は「とにかくケンカしてえんだよおぉぉぉ!」というチンピラ的な考えを元にやってるのではなくて、彼らなりの理論があります。
先日、アメリカ人の多くが「日本に原爆を落としたのは正しかった」と思っていることを記事にしました。
同じように、アラブの人の多くは「聖戦(先進国でいうテロ)」が正しいものだと思っています。
もちろん、それなりの理由があってのことです。
注目すべきは、彼らの意見の論拠に日本が出てくることです。
日本人は「原爆」についてだいたい似たような認識があります。当然原爆は良くないし、世界からなくなればいい。多くの人がそのような意見を持っています。私もそうです。
しかし、これがアラブ世界、特にアメリカに反感を持っている国では異なった解釈になります。
アラブ世界にとっての「原爆」
アラブ世界のニュースにはほとんど日本の話題が出てきません。
出るとしても皇室の話題が多いそうです。彼らは王が国を治めているから、世界の見方も自然と王を中心としたものになるのでしょう。生前退位のニュースも取り上げられてるのかな?
彼らにとって日本は極東のちっぽけな島に過ぎず、新聞の片隅にときどき書いておけばいいくらいのどうでもいい国ですが、唯一、ヒロシマとナガサキの話題については扱いが違います。
日本への言及が一般的に少ない中で、例外的に一貫して継続してメディアに登場するのが「ヒロシマ、ナガサキ」である。アラブ世界で道行く人と話してみれば、まずは「どこから来た?」と聞かれるのだが、「トーキョーか、それともヒロシマか、ナガサキか?」と問われるのが普通だ。一般庶民が知っている日本の都市の名前というと、ほぼこの三つに限られる。(p132)
大阪を忘れんなよ!と言いたいところですが、これには理由があります。千葉も覚えとけよ!と千葉育ちの私は思うわけですが、理由があるのです。アラブ世界では皇居のある東京と原爆が落とされた広島と長崎のことが繰り返しニュースに取り上げられます。
なぜかというと、原爆はアメリカが日本に落としたものだからです。
アラブ諸国にはアメリカを憎んでいる国が多くあります。
つまり、にっくきアメリカが行なった非人道的な殺戮の歴史として、メディアでも要人発言でも原爆のことが引き合いに出されることが多いのです。そのため広島と長崎が有名になってしまいました。
アメリカが行なったこの大量殺人は、テロをする人々にとって「大量殺人をしても問題はない」という理論となって彼らの行為を正当化させています。
アラブ系メディアの「アルジャジーラ」に『反対方向』という人気討論番組があります。
異なる主張を持つ二人の論客が意見を戦わせるという番組ですが、アメリカの同時多発テロが起こるわずか2ヶ月前のテーマは「ビン・ラディンの行動はテロリズムかジハードか」でした。
まず、番組ではアドラーンがビン・ラディンの行動を「テロだ」と主張します。
第一に、国際テロリストの目的は自らが権力を奪取することにあるから。
第二に、国際テロリズムの攻撃対象となる国は「民主主義的な、あるいは歴史的な正当性を持っている」から。
第三に、テロリズムの犠牲者は、実際には大多数が無辜の一般人であるから。
これに対して、アトワーンは声を荒げて反論します。
<p138より抜粋>
このようにして、広島、長崎、ベトナム、パレスチナの例を出しながら、アメリカの残虐性を強調していきます。
話を聞けば、理論は合っていますね。事実は確かにそうでした。
しかし解釈が、日本その他欧米とは異なっています。日本が受け止めている「原爆」とは違っています。
「アメリカは一般人を殺した」という非難を声高に行い、そこから「我々もアメリカに対抗するためには一般人を殺していい」という結論を導くのである。
「ヒロシマ」を持ち出すことによってテロリズムに対する穏健・妥当な批判までも無力化してしまうという論法はアラブ世界の言説空間では非常に効果的である。(p140)
同じ出来事だとしても、立場によって受け取り方はまったく異なります。意見が違うのです。
自分の意見を持つ方法
意見というのは、いかようにも作ることができます。
私は大学生の時、小論文の授業を受けていました。そこでよくつまずいたのが、もともと書こうと思っていた結論があっても、いざそれについて書き始めてみるとだんだんと話が横道にそれていって違う結論にいたってしまうということでした。
教授はそういう生徒たちの様子に気づいて「もともと書こうと思っていた結論と変わってしまっても、それはそれでいい。」と言いました。
いいんかい!と心の中でツッコミを入れましたが、意見というのはそういうものです。
意見は作るものなので、まずは何でもどんどん作っていくことが大事です。
はじめはちゃんとした意見が出ないかもしれません。
料理の初心者は、狙ったものを作ろうとして別の料理ができてしまうことがよくあります。そうして作っているうちに、だんだん自分らしい料理ができるようになります。
意見も、自分の意見を持つにはまず作ってみることです。論理さえ筋道が通ってさえいれば何かしらの意見が出てきます。
ですから、同じ事実に対して2つのまったく別の意見を作ることもできます。議論の文化が成熟している欧米では、ディスカッションの授業の中でまったく別の意見を2つ作るように訓練されることもあります。
そうして何回も意見を作る中で、だんだんと自分の根本の考え方に向き合うようになってきます。
このように自分の傾向が客観的にわかるようになることもあります。
このように感じて別の意見を探すこともあります。
このようにこだわりが見つかることもあります。
試行錯誤しながら、自分の意見を作ってみてください。
おわりに
日本も物騒な事件が後を絶ちませんが、世界的に見ると本当に平和的な考え方を持っています。
というのは、世界では自国民が外国人に殺されたという事件が起こると必ず国内で大きなデモが起こり相手国の企業や飲食店が破壊されます。アラブの場合は考え方がすごいです。
アラブ諸国で「ヒロシマ」について突っ込んで議論してみると、認識のギャップはかなり激しい。「原爆を投下された」という「過ちを繰り返さない」ためには、「当然、二度と投下されないように力を蓄える」という決意を日本人が固めているに違いないと、アラブ世界の大多数の人々は考えるようである。「そうではない」と言うと、「ああ、わかってる。わかってる。今はアメリカに占領されているからできないんだろう。アメリカが日本に核兵器を持たせるはずがないよ。まず占領から脱して、それから日本の技術力でミサイルと核兵器を作る。中国に先を起こされてしまったけど、日本ならできるはずだ。」といった反応が返ってくる。(p142)
世界的にはこのような考え方が当たり前なのかもしれません。
それに比べると、日本のアメリカに対する態度は特殊ですね。逆に日本は平和憲法が揺らぎそうになると抗議の声を上げるくらいです。
日本人は世界的に見ればもっとも平和的に解釈しようとする民族です。であってほしい。そのことをもっと誇りに思って、日本人の意見を世界へ発信していけるといいですね。