人は誰でも変わりたいと思っています。でも変われない、と諦めてしまうことも多いです。それは自分の性格のせいかもしれないし、過去に起こった出来事のせいかもしれないし、もともと不幸な星の下に生まれたからかもしれない。しかし、心理学者のアドラーはこう言います、「人は変われる。誰でも幸せになれる。」
欧米では、フロイト、ユングと並んで有名な心理学者であるアドラー。日本ではあまり知られていませんでしたが、2013年にこの本が出てから一躍脚光を浴びることになりました。
本書は2人の登場人物の対話形式で進んでいきます。1人は「アドラー心理学を学んで満足な人生を歩んでいる哲人」であり、もう1人は「みんな嫌い、自分のことはもっと嫌い!な青年」。哲学者が青年に教えを教授する形を通して、アドラー心理学が紹介されていきます。
変われないのではなく、変わらない決心をしている
青年の主張はこうです。
青年の主張に対して、哲人は答えます。
それは「変われない」のではなく、「変わりたくない」のだ。あなたは自分で「変わらない」という決心をしている。
なんのために?その方が楽だからだ。変わろうとする時には勇気が試される。そうした「変わることへの不安」と「変わらないことの不満」を比べた時に、あなたは後者を選んでいる。いま享受している楽しみ ーたとえば遊びや趣味の時間ー を犠牲にしてまで変わろうとするより、多少の不満や不自由があっても、今のままでいた方が楽なのだ。
つまり、「変われないのは過去のせい」ではなく、「変わりたくない言い訳を過去のせいにしている」ということだ。引きこもりの人が感じている外の世界への恐怖も、不幸な自分が感じている劣等感も、「変わらない」という目的のために捏造されたものだ。
恐怖も、劣等感も、また怒りも、それがあたかもコントロール不能な感情のように思われるがそうではない。本人の目的を達成するために利用しているだけだ。現に、口げんかの最中に電話が鳴ったら、誰でも冷静な声で応対するではないか。感情は出し入れが可能である。
フロイトやユングは「過去の原因」から人の心理を研究したが、アドラーは「現在の目的」に目を向けた。この考え方によれば、今現在のあなたの生き方は、あなたの過去に左右されているのではなく、あなたの目的に沿っているということだ。
そして、これまでの人生に何があったとしても、今後の人生をどう生きるかについてはなんの影響もない。
なぜなら、身の回りに起こる出来事も、捉え方次第だからだ。
たとえば、背が低いことをデメリットとして捉える人もいれば、それを活かす人もいる。大事なのは、身長が高いか低いかではなくて、身長についてどのような意味づけをするか、だ。
こうしたアドラー心理学は、「何をもらえるか?」という「所有の心理」と比較して「どう使うか?」に焦点を当てた「使用の心理学」と呼ばれる。
過去の出来事にどのような意味づけをほどこすか。これは「いまのあなた」に与えられた課題である。
すべての悩みは対人関係
アドラーの話に感心しつつも、青年は反論します。
哲人は答えます。
過去に起こった事実は変えようがないが、どう受け止めるかは今からでも変えることができる。あなたにはそこに立ち向かう勇気がないのだ。
人が「自分のことを好きになれない」というとき、その目的は「他者との関係の中で傷つかないこと」である。
その人は「自分を好きにならないでおこう」と決心している。そうしておけば、人と関わらずにすむし、人に拒絶されたときにも短所だらけの自分を言い訳にできる。
アドラーは「すべての悩みは対人関係からくる」と主張する。一人で生きている人はいない。世界で一人だけであるなら悩みがあることすらわからないだろう。他者と関わろうとするときに、その勇気が挫かれて悩みとなるのだ。
悩みを解決するためには、他人を味方だと考えなければならない。他人を競争相手として捉えているあいだは、勝者と敗者が生まれ、劣等感を感じる可能性があり、傷つくことを避けるために言い訳をするようになる。
「劣等感」という概念をはじめて使ったのはアドラーだった。ただし、使い方が私たちとは異なる。劣等感はもともと、「自分の目標に対して現状足りてない」という感覚のことだ。それ自体は向上心につながる、良いものである。
劣等感を言い訳につかうように変質したものが、「劣等コンプレックス」である。これが私たちが普段「劣等感」と呼んでいるものだ。これは、向上する勇気をくじかれた劣等感をいう。「どうせ自分なんて」という心理状態だ。
さらに、劣等コンプレックスにも耐えられない場合、それは「優越コンプレックス」に変質する。簡単にいうと「空いばり」だ。極端なブランド信仰や、自分の不幸を武器にして相手を支配しようとする態度もこれに含まれる。
劣等コンプレックスや優越コンプレックスに陥ってしまうのは、人が社会的な存在として生きていこうとするとき直面せざるをえない対人関係、「人生のタスク」から逃げているからだ。
人生のタスクは、「仕事」「交友」「愛」の3つに分けられ、最も難しいのは「愛」である。本当の愛とは、「その人といるととても自由に振る舞える、きわめて自然な状態でいられる」ということだ。
こうした人生のタスクに直面する勇気がなく、別の言い訳でごまかしていることを「人生の嘘」という。過去を言い訳にしたり、未来を心配することは「いま、ここ」をどう生きるかには何の関係もない。人生の最大の嘘は、「いま、ここ」を真剣に生きないことだ。
嫌われる勇気
青年は言います。
哲人は答えます。
まず、人のために生きることをやめなさい。アドラーは、他人の承認を求めることを否定する。他者の評価ばかり気にしていると、他者の人生を生きることになる。見返りに縛られた人生は不自由を強いる。
他者の視線が気になり、他者からの承認を求めてしまうのは、「課題の分離」ができていないからだ。
「課題の分離」とは、「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他人の課題を明確に分けることだ。
そして、自分の課題には真剣に向き合い、他人の課題には一切踏み込まないことだ。
あらゆる人間関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことによって引き起こされる。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するだろう。
「誰の課題なのか?」を見分けるのは簡単である。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えることだ。
たとえば、学生が就職活動をしている。どの会社に入るかは、本人の課題だ。なぜなら、本人がその選択の責任を負うのだから。
その子の親は良い就職口を見つけて欲しいと願って口出しをしがちだが、それは介入であり、他者の課題に土足で踏み込むことだ。
その子は親の顔色をうかがって選択をしてはならない。就職先を選ぶのは自分の課題であり、そこへ他人を踏み込ませてはならない。
課題の分離をし、自分の課題を把握したなら、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」それだけだ。
その選択によって他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない。子供が選んだ就職先について親がどう感じるかは、親の課題である。
つまり、他者に嫌われることを怖れるな、ということだ。嫌われる勇気を持ちえたとき、対人関係は一気に軽いものへと変わるだろう。
「自由とは、他者から嫌われることである。」
共同体感覚と貢献感
課題の分離はアドラーの対人関係の入口だ。ゴールは「共同体感覚」を持つことにある。他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚という。いつも共同体感覚を持つことを目的としなさい。
共同体感覚を持つためには、「自己への執着」を「他者への関心」に変えることだ。自分のことばかり考えるのではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えて、自ら働きかけることだ。それは先ほどの「人生のタスク」に立ち向かうことでもある。
多くの人が、自分の課題を前に踏みとどまっている。それは能力の有無では無く、自分の課題に立ち向かう勇気が挫かれているから、と考えるのがアドラー心理学である。
であれば、「何を与えられるか?」の答えは、一歩を踏み出すための「勇気づけ」である。
では、どういう時に人は一歩を踏み出す勇気を持てるのか。人は、「自分には価値がある」と思えたときにだけ勇気がもてる。
それでは、どういうときに価値があると感じられるだろうか。それは、感謝の言葉を聞いたときだ。感謝の言葉を聞いたとき、人は自らが他者に貢献できたことを知り、自分の価値を感じることが出来る。
気をつけなくてはならないのは、誉めても叱ってもいけないということだ。誉める、叱るという「評価」は、上の立場から下の立場に向けてされるもので、相手を下と見なす行為だ。相手は自信を損なってしまう。縦の関係では無く、横の関係で与え、相手が自ら自分の価値に気がつかせることだ。
人は「この人に何かを与えられる」という「貢献感」を得られることこそが幸せなのである。
それは人の目をうかがって承認を求めるのとは違い、自ら進んで与えに行く姿勢である。そこに相手の承認はいらない。
私たちは、自由に何をしても良い。人に嫌われようがかまわない。「他者貢献」という一つの導きの星さえ見逃さなければ。