疑問が湧いた時に、インターネットで検索することは多いが、その時出てきた情報は信頼できるのか?
結論から言うと、信頼できない。なぜなら、以下の理由があるからだ。
1.常に情報は新しくなっているから
2.ネットでは正しさよりウケる情報の方が重視されるから
今回は、ネットの情報との付き合い方について、「インターネットネイティブ」とも呼ばれる世代の僕が、20年間ネットを使い続けてわかったことを書こうと思う。
常に情報は新しくなっているから
僕は哲学をやっていたせいか考えるのが好きで、いつも何かしらの疑問にぶつかっている。また、ブログに記事を書く時も、わからないことはググる(Googleで検索する)ことが多い。
大抵はそれで満足するけど、ときどき「?」がつくことがある。情報が古い場合だ。特にWeb関連の情報は日々更新されていくから、検索した情報がちょっと古いなんてことはザラだ。
たとえば、先日、スマホのアプリがアップデートに止まってしまってしまったことがあった。アプデは完了しないし中止しようにも反応がない。そこで検索してみると、解決策を図入りで丁寧に解説しているサイトを見つけた。「お、この通りにやればいいんだな。」ほっとしたのもつかの間、図と、僕のスマホの画面が違う。スマホのOSがバージョンアップされていて、サイトの情報が古くなっていたのだ。
こういう場合、気合を入れて別サイトを探せば多くは解決できる。または、どこが変わっているのかを根性で探し出して、その部分だけ読み替えれば解決できる。いずれにしても気合と根性が必要だ。
最新の情報がどこにもない時には、誰かが気づいて新しい情報を載せてくれることは多い。(アプリの更新が止まった時の対処法は、僕がブログに書こうかな)
そして、その最新情報もいずれは古くなる。みんながそのようにして、ネットの情報は日々更新されている。お肌でいえばターンオーバーが常に起こっている。
情報は更新されてはいくが、「これが最高」という答えに至ることはない。常に前進である。お肌のターンオーバーが正常に繰り返されてこそ健康であるように、情報も更新が常に繰り返されてこそ、ネットの健全性は保たれる。
そういうわけで、ネットの情報は信頼がおけない。もしも信頼して、知ったつもりになって安穏としていたら、気づくころにはその情報は古いものになっている。
ネットでは正しさよりウケる情報の方が重視されるから
Web関連情報ほど頻繁に更新されない情報も、信頼はしない方が良い。これは、ネットの情報には特有のバイアス(偏見)がかかるからだ。
どんなバイアスがかかるかというと、「正しい情報より人気のある情報の方がネットでは重視される」、というものだ。
検索した時に1ページ目に表示されるサイトは、人気があるサイトである。それは、正しい情報を持っているということではない。
Googleは、どのサイトがたくさんの人に読まれているか、長い時間読まれているか、たくさんリンクを貼られているかなどを把握している。
そして、たくさん人を集め、長い時間読まれ、たくさんリンクを貼られているサイトを「質の良いサイトだ」と判断して1ページ目に表示している。
だから、正しい情報でもさらっと読まれてしまえば「良いサイトだ」とは判断されず、嘘ばかりでも刺激的で読者が殺到していたら「良いサイトだ」という判断が下されるということだ。
怪我をしてわかった、ネットの情報の偏り
僕がこのことを実感したのは、怪我についてネットで調べた時だ。
年始に友人と皇居ランをした。快晴で気持ちが良く、走っているうちに体も温まってきたので、調子に乗って2週、約10km走った。
その日は何ともなかったが、翌日、膝が痛んだ。動かすたびにズキズキし、特に階段の昇り降りは顔が引つるほどつらい。しかし、しばらく歩いていると気にならなくなる。
3日経っても痛みが治まる気配が無いので、筋肉痛ではないなと心配になって、この症状をネットで調べてみた。
この「心配」が、変な情報をネットで目立たせる原動力となる。そのロジックについては後述する。
膝の痛みについて僕が調べたところ、どのサイトにも、「変形性膝関節症(へんけいせいひざかんせつしょう)の可能性があります。」と書かれていた。変形…?
嫌な感じがしてよく読んでみると、調べるほど、怖い情報が出てくる。「軟骨がすり減っている」だとか、「骨が欠けて膝に刺さっている」だとか、「原因は骨粗鬆症」だとか。
ちょ、おばあちゃんがなる病気に俺がかかってるってこと!?
「ヤバイ!すぐに手術だ!入院するしかない!」
病院を調べると、近所に有名な整形外科があるではないか。土曜の朝一に駆け込んだ。しかし待合室はすでに、早起きしてラジオ体操まで済ませたおじいちゃんおばあちゃんでいっぱいだった。早起きは三文の得とはこのことだな!ちくしょう!
おばあちゃんたちは和やかにおしゃべりをしている。その優雅な雰囲気に、一瞬、ここが病院なのか飛行機の搭乗を待つエアラインラウンジなのかが分からなくなる。
一人一人名前を呼ばれて飛行機に、ではなく診察室に入っていく。おばあちゃんたちのフライトは長い。ロンドンあたりまで行っているに違いない。そうして待つこと一時間半。ようやく僕の搭乗時間がやって来た。
有名な整形外科だというから年期の入ったベテラン医師が診察してくれるのかと思いきや、診てくれたのは僕と同い歳くらいの方だった。
ひとしきり事情を聞かれて膝の曲げ伸ばしをした後、「レントゲンを撮ってみましょう」と言われ、まるでモデル並みに様々な角度から膝の写真を撮ってもらった(しかもスケスケ写真!)。
レントゲン室から診察室に戻ると、若い医師は顎に手を当てて写真を眺めていた。そして僕が丸椅子に座るのを待って、言った。
「捻挫ですね。」
は?膝が捻挫?
「膝も捻挫っていうんです。治るのには2~3週間はかかりますから、もしそれでも痛みが続くようであればまた来てください。」
ほっとした。
医師の言ったとおり、2週間後、痛みはすっかり消えて無くなっていた。階段を降りるのが楽しかったのを覚えている。
痛みが無くなって、気持ちも冷静になって気がついた。「ネットの情報に踊らされた」と。
ネットの情報が偏る仕組み
僕の膝の痛みの場合、「捻挫」が正しい情報だった。しかし、その時は検索しても捻挫の情報は見つけられなかった。出てきたのは、こわいこわい怪我の情報だ。
こうなるのは僕だけではない。ネットでどんなことを調べるにしても、「よりエキサイティング」な記事の方が見つかりやすい。
なぜ、ネットではこのような現象が起こるのか。その仕組みはこうだ。
まず、僕は膝が痛くて心配になった。心配でいろいろな疑問が湧いてきたから、それを解こうと、手っ取り早くネットで検索をした。
ネットには、あらゆる情報が存在する。中には「膝の痛みは捻挫であることも多いですから、まずは安静にして、病院で診てもらいましょう。」と書いてあるサイトもあっただろう。もし、僕がそういう情報を見つけたなら、「なあんだ。ほっとした。」と思ってすぐに検索を止めたに違いない。
しかし、そういったサイトは見つかることが少ない。
なぜなら、Googleが検索結果の目立つところに表示しないからだ。
先ほど、Googleは人気のあるサイトを重視すると書いたことを思い出して欲しい。僕が「ほっとした。」と思ってそのサイトをすぐに離れてしまう、その行為は、Googleには「人気があるサイト」とは認識されづらいのだ。
一方で、僕がたどり着いたのは「変形性膝関節症」を詳しく解説したサイトだった。読めば読むほど、もともと持っていた不安が増長され、焦るほどページの隅々まで読むようになる。そしてもっと詳しく調べなければ気がすまなくなって、関連した情報をあちこち探すようになる。
かくして、人の「心配」という感情は、そのサイトを熟読させる。こうした行動によって、Googleは「膝の痛みを調べる人の多くは、軽度の捻挫の記事より、深刻な怪我の記事を熟読する傾向がある。」という分析をする。そして、重症を解説したサイトのほうが人気があると判断し、検索結果の上位に表示させるようにする。
検索結果の上位に表示されれば、ますます多くの人がそのサイトを読むようになる。
これが、ネットに起こりがちなバイアスだ。正しく優しい情報は目立たないところに、刺激的で感情を煽る情報ほど目立つところに置かれやすい。
では、「論より証拠」ということで、ためしにお手元のスマホか携帯で「siri」と検索してみてほしい。「siri」とはiPhoneの音声アシスタントのことだ。siriのことをもっと知るために、ググってみよう。
すると、以下のような検索結果が表示される(2016/08/30現在)
検索結果の2番目に、目を引く記事が表示されている。siriのことを知ろうとすると、Googleは「ゾッとする都市伝説」を勧めてくる。
なぜかといえば、みんながこの記事を読んでいるからだ。私も思わず読んでしまった。
心をざわつかせる記事はたくさんの人に読まれる。はたして記事は人気があると判断され、検索結果の目立つところに表示される。たとえ内容が間違っていたとしても、また検索の意図とは関係ないとしても。
こういうわけで、ネットの情報をむやみに信じてしまうのは危険である。
以下の記事も参考にされたい。病気については特に慎重に判断する必要がある
ネットの情報とうまく付き合う方法
こうなってしまうのは、誰が悪いわけでもない。Google、書き手、読み手の3者のうち、単純にどこが悪いとは言いきれない。
読者の感情をきっかけにして、刺激的な記事が読まれやすくなり、その様子をGoogleのアルゴリズムが冷静に分析しているだけだ。
だから、読み手の私たちはネットの接し方を変える必要がある。
ネットの情報は一次資料であることを知る
まず、ネットの記事の多くは個人が書いたものであるということを知らなければならない。1つの記事に関わるのは、基本的に1人だ。新聞や雑誌のように企画や編集に複数人が関わることが少なく、大企業の公式メディアでさえ担当者は「中の人」と呼ばれる1人であることが多い。
これは、資料の分類としては一次資料にあたる。資料には一次資料と二次資料があり、たとえば歴史上の人物が書いた直筆の手紙は一次資料であり、その手紙を後世の人々が研究し解説したのが二次資料になる。
Wikipediaでは、ある事柄の根拠に一次資料を使うことを推奨していない。
なぜなら、一次資料は書き手の主観が入り込みやすいからだ。
一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。
以下の記事によると、戦時中のアメリカ軍の公式文書には、日本の駆逐艦「疾風(はやて)」が「HATATE」と記載されていたそうだ。
誰かが報告の過程で「Y」を「T」に読み間違えたのかもしれない。そのせいで、「ホタテ」でも「ハテナ」でもない、カワイイ名前になってしまった。
きゃわわな名前の駆逐艦 引用:Wikipedia
ネットの記事も一次資料だ。個人が書いたもので、主観が強い。ネットの記事はそういうものだということをわきまえて読むことが必要だ。
書いてある内容に惑わされないためには、適切に用いる訓練が必要だ。適切に用いるためには、記事の内容を吟味することも大事だが、同時に、書き手がどういう個性を持った人なのかを知っておく必要がある。また、どういう環境で書かれたものなのか、さらに時代背景まで知っておいたら、記事が言わんとしていることを、より深く理解できるだろう。
たとえば、疾風の誤記にしても、当時は戦争中で、みんなピリピリしている。急に敵が現れたら冷静でいられるだろうか。
「0時の方角に敵戦隊を発見!接近してきます!日本海軍の『夕張』『追風』『HATATE』です!!!」
などと誤報してしまったとしても、しょうがないじゃないか。戦争映画のように報告をカッコよくキメるのは、実際はなかなか難しかったと思う。
ネットの記事はコミュニケーションツールとして読もう
一次資料にも良い点はある。なんてったってオリジナルだ。書き手の熱が伝わってくる。臨場感も、心情も。これは後々研究された二次資料からは得られないものだ。
だから、ネットの情報は書き手とコミュニケーションをとるものとして読むものだ。信憑性を期待するものではない。「疾風」でも「HATATE」でもいいんだ、伝わってくるものがあれば。書き手は客観的な事実を書いているというよりは、自分の思いを主張しているのである。
つまり、記事を読んで「面白い」と思ったり「やばいどうしよう」と思うのは、書き手と意思疎通が出来ているということであり、情報が正確だからではない。
数年前、江戸東京博物館で幕末展を見に行ったことがある。志士たちの直筆の手紙が展示してあったのだが、第一印象は「字が汚い」だった。達筆で字が崩れているのではない。変にカクカクした、よく見かける字が汚い人の字なのだ。そばにいた小学生さえ「なんで字が汚いのー?」とお父さんに質問する始末で、お父さんが黙らせるのに大変な苦労をされていた。
字は汚かったが、それを見てはっきりわかったのは、「20代の若者が、その情熱で日本を動かした」という現実だ。小説や大河ドラマからは削ぎ落とされてしまっているリアリティ、生々しさを感じた。一時資料とは、こういうものなのだ。
おわりに
これまで書いてきたことは、この記事においても同じである。この記事は、ふと思いついて熱に浮かされて書いた記事であり、正確性を保証するものではない。
しかし、体験に基づいている。体験から得たものをなんとかシェアできないかという思いで書いた、一介のネットユーザーの主張である。
ありがとうございました。