もし、あなたが徳川家康だったとしたら関ヶ原の戦いに勝って天下をとれたでしょうか。
現在『真田丸』がやっていますが、今回は家康視点で学ぶことがあったので記事を書きたいと思います。
家康的天下統一法
家康は関東250万石の大大名で大きな兵力を持っていましたが、彼に天下を取らしめたのは、兵力以上に人の心のつかみ方、動かし方がうまかったからだということができます。
「人はこういう理由で動く」「人とはこういうものだ」ということを熟知していて、関ヶ原の戦いでは敵味方問わず家康の思い描いたとおりに動いてしまい、家康に天下を取らせました。
家康の性格は「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」だといわれます。じっくり時が来るまで待つ性格だといくことですね。
しかし、ただぼんやり時が来るのを待っていたわけではありません。家康は「自分では動けない時も人を動かして形成を有利に持ってきてしまう」のが上手い人でした。今でいうコネと根回しです。
入念な準備で運を開いた『小山評定』
家康の運命を大きく開いたのが『小山評定(おやまひょうじょう)』だといわれています。
1600年7月、家康は上杉景勝を討つために大阪から福島へ向かっていました。上杉家が家康のいうことを聞かなかったためです。
家康の軍が今の栃木県小山市についたとき、大阪で石田三成が挙兵します。
こうして日本を真っ二つに分けた「関ヶ原の戦い」の火蓋が切って落とされました。関ヶ原の戦いの面白いところは、こうした「どっちが正義かわからない」中でいろんな流れがあって勝ち負けが決まっていくところです。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」を象徴する戦いでした。
関ヶ原の戦いについて文字だけでは説明しきれませんが、とりあえずこの動画を見ておけば大丈夫です。
三成の挙兵にびっくりしたのは家康の家来たちです。
家康は軍議を開くことにしました。これが『小山評定』です。この軍議で民意を統一して石田三成と戦うようにしなければなりません。失敗すれば内部分裂してしまいます。
建前上、軍議では「大阪に戻って三成に味方したい人はそう言って欲しい」と尋ねることにしています。しかし周りを気にして本音を言わない人も多かろうし、だからと言って積極的に「三成と戦おう」という意見が出にくいことはわかりきっています。無駄な会議が多いのは昔も今も同じです。
そこで家康は、事前に人を立てて軍議で「打倒三成!」と言わせることにしました。一人が口火を切ることで全体を同じ流れに持っていこうという作戦です。
家康の陣営を見渡したところ、適任者が一人いました。それは以下の誰でしょう。
『池田輝政(いけだてるまさ)』
信長から秀吉・家康に仕え主要な合戦の大半に従軍。あまり物事にこだわらない性格で、のちの岐阜城攻めでは福島正則と競争して一番乗りを手にするが、福島に功績を譲ってしまうお兄さん体質。
『福島正則(ふくしままさのり』
豊臣秀吉の従兄弟。めちゃめちゃ強いが知恵がない、マンガにありがちな設定のキャラで、ゲームの『戦国無双』ではヤンキーとして描かれるほど。石田三成が大嫌いで、口癖は「三成の肉をくらってやる」。黒田長政と仲が良い。
『黒田長政(くろだながまさ)』
黒田官兵衛の息子。父は秀吉に仕えたが彼自身は家康につく。この家系は主君が誰であれ強い方につき策謀を授けることが生きがいらしい。
『細川忠興(ほそかわただおき)』
天下一気が短いといわれた男。妻への愛も天下一を通り越した偏屈っぷりで、石田三成が大阪で挙兵した際に大阪の妻が三成の人質になることを恐れて妻に自殺を命じるという、愛とは何かを考えさせられる人物
。
『藤堂高虎(とうどうたかとら)』
戦国の混乱期に何度も主君を変えて生き抜いた転職の名人。築城の名手でもある。300年後の鳥羽伏見の戦いで藤堂氏は幕府側につくが、官軍有利と見るや寝返って幕府軍に砲撃を加えたという遺伝子レベルの投機家。加藤嘉明と仲が悪い。
『加藤嘉明(かとうよしあき)』
「沈勇の士」と謳われるほど冷静沈着だが、朝鮮出兵の時には少人数で勝手に攻めだしたあげく敵に包囲され、敵の船に飛び乗って船を奪って帰るというルパンばりのアクションもこなす。
他にも個性派ぞろいの家康家臣団ですが、その中で白羽の矢が当たったのは…。
福島正則でした。福島正則は豊臣秀吉の血縁者ですから、彼が「石田三成と戦おう!」と言えばみんなは「福島殿でさえそういうお考えならば。」と安心して付いていくことができます。
しかし、福島正則をどう説得したらよいかが問題でした。誰よりも豊臣家に近く、また大阪に妻子を残してここ小山まで来ている福島正則です。
家康は、正則の三成嫌いな性格を利用することにしました。かつての朝鮮出兵の時、朝鮮まで戦いに出ていた福島正則の働きぶりを石田三成が過小に評価して豊臣秀吉に報告していたとして、それ以来めっちゃ三成嫌いになっている正則です。
福島正則の説得にも、家康は自分では動きません。正則と仲の良い黒田長政を使うことにしました。長政は黒田官兵衛の息子で頭が切れます。説得にはもってこいの人材でした。
1600年7月25日、家康の陣所に諸将が集まりました。家康に選ばれた山岡道阿弥・岡江雪が状況を説明します。
拙者はいちずに内府にお味方し、その先鋒を駆け働き、石田めが肉をこの歯にてくいちぎらんとする者じゃ!!
↑ 3:26からが軍議のシーンです。
ここでも家康は自分からは動かずにいます。すべては準備段階で決まっていたということでしょう。この小山評定によって家康の東軍は一致団結し、足並みのそろわない西軍を粉々に砕き、江戸時代が幕をあけることになります。
夫未戰而廟筭勝者、得筭多也。未戰而廟筭不勝者、得筭少也。多筭勝、少筭不勝、而況於無筭乎。吾以此觀之、勝負見矣。
一体、開戦の前にすでに宗廟で目算して勝つというのは、その勝ち目が多いからのことである。開戦の前にすでに宗廟で目算して勝てないというのは、その勝目が少ないからのことである。勝ち目が多ければ勝つが、勝ち目が少なければ勝てないのであるから、まして勝ち目が全くないと言うのではなおさらである。私は以上のことで観察して、事前に勝敗をはっきりと知るのである。
出典:『孫子』
おわりに
家康の作戦にまんまと乗っかり東軍を勝利に導いた福島正則でしたが、家康は彼に良い印象を持ちませんでした。
なぜなら正則は豊臣秀吉の血縁で、いくら石田三成にくしといえど、豊臣家の命令という建前で動いている三成に対して刃を向けた、その軽率な性格が受け入れられなかったのではないかと、小説家の司馬遼太郎は推測しています。
その証拠に、江戸時代に入って以降、福島正則は徳川家に様々なイチャモンをつけられて領土のほとんどが没収されています。
家康が重病で死の床に就いた時に正則はお見舞いに行きますが、家康は「文句があるなら遠慮せず挙兵しなさい。」と冷たく言い放ちます。御前を退出した正則は「今日までご奉公に努めて来たにもかかわらず、あのような申されようは情けない限りだ」と嘆き、人目もはばからず泣いたといいます。