歴史を見てみると「多様性」というのは一過性のブームじゃないかという話

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最近になって「多様性」という言葉をよく聞くようになりました。

それぞれの生き方が尊重されるのがとても良い反面、この言葉を使って「だから人の言うことは聞かない」と開き直ることができるのが諸刃の剣である言葉です。

まわりを見てみれば、以前よりいろんな人が増えたと確かに感じます。

でも実際には、人の頭の中にある色々な考えがインターネットをはじめとする技術の進歩で露わになっただけなのかもしれません。

実際、私の子供のころ、まだインターネットがない時代から、学校の先生は「人は心の中では何考えてるかわからないから気をつけろよ。」と言われていました。

考え方がいろいろあることがわかった近年ですが、その流れがこれからも続いてみんなそれぞれの道を行くのかというとそうではありません。

なぜなら、人類は大昔にはまったく交流さえできなかった時代から、だんだんと人が集まり、国ができて、世界共通の観念である貨幣や科学を使うようになる、という大きな目で見ればひとつになる方向で動いてきたからです。

その途中途中でバラバラになる、たとえば仏教やキリスト教が起こった後で様々な宗派に別れたり、イギリスがEUから脱退したりなど、ひとつになろうとする動きからの反動とも取れる動きもあります。

しかし、それは投資でいう上昇相場の中の調整局面で、本当に長いスパンで見れば人類は一つ向かって歴史が進んでいます。

あ、これは私の考えというより本の受け売りの知識なんですけどね。

だから、今「多様性」と思われている現象も、いずれひとつにまとまっていく流れになるのではないかなあという思いがしています。そしてそれはあまり穏やかではない方法による可能性もあります。

たとえば、過去にスペインがアステカ帝国を征服したり、イギリスが世界のあちこちを植民地化したように。

もちろん今は武力を使って侵略することは時代遅れでしょうが、他の方法で人を治めようとする動きはあってもおかしくありませんね。たとえばAIなんかまさにこれから脅威になってくるはずです。遠くに黒船見えてます。

だとしたら、「多様性」を盾にして自由気ままな生活はできませんね。そんなことをしていたら、いつかめちゃくちゃ強い征服者が攻めてくるだろうから。

地球上には異なる人間社会がいくつ存在したのだろう ?紀元前一万年ごろ 、この星には何千もの社会があった 。紀元前二〇〇〇年には 、その数は数百 、多くても数千まで減っていた 。一四五〇年には 、その数はさらに激減していた 。(中略)
その後三〇〇年間に 、アフロ ・ユ ーラシア大陸という巨人は 、他の世界をすべて吞み込んだ 。まず 、スペイン人がアステカ帝国を征服した一五二一年に 、メソアメリカ世界を取り込んだ 。(中略)
アフロ ・ユ ーラシア大陸という巨人が 、吞み込んだものをすべて消化するまでには数世紀かかったが 、この過程は逆転不可能だった 。今日 、人類のほぼ全員が同一の地政学的制度 (地球全体が 、国際的に承認された国家に分割されている )や 、同一の経済制度 (資本主義の市場勢力が 、地球上の最果ての地まで支配下に置いている ) 、同一の法制度 (少なくとも理論上は 、人権と国際法があらゆる場所で有効になっている ) 、同一の科学制度 (イラン 、イスラエル 、オ ーストラリア 、アルゼンチン 、その他どこの専門家であれ 、原子の構造あるいは結核の治療法について 、完全に見解を一にしている )を持っている 。

〈参考〉

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