お金の投資

お金の歴史と役割と正体

昔、人は何かが欲しい時は別のものと交換することが当たり前でした。

リンゴ名人「よし、今年もリンゴが豊作だ。食べきれないからおすそ分けしよう。やあ靴名人さん、うちのリンゴをあげます。」

靴名人「わあ、ありがとう。リンゴ名人さん、靴がすり減っているようですね。お礼に直してあげます。」

もらったらお返しする、そういう「良心」みたいなものに基づいた「物々交換」が経済の始まりですね。

貨幣ができたワケ

基本的に楽しい物々交換ですが、これは限られた製品の交換には適していますが、複雑な取引には向いてませんでした。

リンゴ名人「よし、今年もリンゴが豊作だ。食べきれないからおすそ分けしよう。やあ靴名人さん、うちのリンゴをあげます。」

靴名人「わあ、ありがとう。でも、このまえ別の方から靴磨きのお礼にってたくさんの物をもらって置く場所がないんだ。倉庫があればいいんだけどね。リンゴ名人さん、靴がすり減っているようですね。直してあげます。」

リンゴ名人「いやいや、ただで直していただくのは申し訳ない。えーと、そうだ。倉庫名人さん、リンゴをあげますから靴名人さんに倉庫を貸してあげてください。」

倉庫名人「なんだ!リンゴは昨日たくさん食べたからお腹いっぱいだ!それより私はきのう妻と喧嘩してしまってね。相談に乗ってくれないかね。」

リンゴ名人「いやいや、私は独身だから相談相手には不向きですよ。誰かいないかな。…あ、靴が破けた。」

リンゴ名人はついに靴を直せませんでした。

恩恵と義務の経済は 、見ず知らずの人が大勢協力しようとするときにはうまくいかない 。兄弟姉妹や隣人をただで助けるのと 、恩恵に報いることがないかもしれない外国人の面倒を見るのとでは 、まったく話が違う 。物々交換に頼ることは可能だ 。だが物々交換は 、限られた製品を交換するときにだけ効果的で 、複雑な経済の基盤を成しえない。

物々交換はとても効率が悪く、欲しいものが手に入らないことが多くありました。

そこで誕生したのが貨幣です。

今は硬貨と紙幣を使っていますが、昔は貝や牛 、皮 、塩 、穀物 、珠 、布などが使われていました。

リンゴ名人「よし、今年もリンゴが豊作だ。リンゴはいらんかね。」

お客さん「リンゴください。支払いは大麦で。」

リンゴ名人「毎度あり。そうだ、靴がすり減ってたんだ。靴名人さん、靴を直してください。支払いは大麦で。」

靴名人「はいわかったよ。そうだ、最近物がいっぱいだから倉庫を借りよう。倉庫名人さん、倉庫を貸してください。お代は大麦で支払うよ。」

このようにしてみんなが欲しいものを手に入れることができるようになりました。

物質的には価値がない「硬貨と紙幣」の誕生

しかし、大麦にも欠点がありました。

それは賞味期限があることと、害虫がつくことでした。

せっかく蓄えた財産が、腐ってしまったり食べられてしまったりする。

この「食べられる」ということは、それだけ「みんなが価値があると認めている」ということの証拠です。だからこそ大麦が貨幣として成り立っていたのですが、「ずっとは保存できない」という点はなんとか解決したい問題でした。

そこで人は、「硬貨と紙幣」というものを貨幣として使うようになります。

硬貨や紙幣には物質的な価値はありません。

硬貨に主に使われる金や銀は、柔らかすぎて農具や工具としては使えないものでした。また、紙幣は元はただの紙です。

こうした「実質的には価値のないもの」を貨幣として成り立たせているのは「信頼」でした。

リンゴ名人「靴名人さん、この金のコインを価値のあるものってことにしたいと思うんだけれど、どうだろう。」

靴名人「うん、そうしよう。ねえ、倉庫名人さん。」

倉庫名人「なんだ!そんなことなら別にいいぞ!」

こうしてみんなが「信頼している」というだけで価値を持つ貨幣が誕生しました。

貨幣の正体は「信頼」

貨幣は物質的現実ではなく 、心理的概念なのだ 。貨幣は物質を心に転換することで機能する 。だが 、なぜうまくいくのか ?なぜ肥沃な田んぼを役立たずのタカラガイの貝殻一つかみと喜んで交換する人がいるのか ?骨折りに対して 、色付きの紙を数枚もらえるだけなのに 、なぜ進んでファストフ ード店でハンバ ーガ ーを焼いたり 、医療保険のセ ールスをしたり 、三人の生意気な子供たちのお守りをしたりするのか ?人々が進んでそういうことをするのは 、自分たちの集合的想像の産物を 、彼らが信頼しているときだ 。信頼こそ 、あらゆる種類の貨幣を生み出す際の原材料にほかならない 。

こうした「信頼」は、徐々に広がっていき、貨幣経済が世界を覆うようになります。

たとえば昔、金はヨーロッパでは価値がありましたが、インドでは価値あるものと思われていませんでした。しかしインドにはたくさんの金がありました。

ヨーロッパ名人「インドすげー!金がいっぱいあるじゃん。これ、うちの国に持って帰っていい?お礼に欧風カレーあげるからさ。」

インド名人「うん、こんなものでいいならあげるよ。(すごい喜びようだな、ヨーロッパ人はこのキラキラした金属が好きなのか。待てよ。じゃあうちの国で金を掘ってヨーロッパに運べばたくさんの欧風カレーがもらえるんじゃない?)」

このように考えたインド人たちは、金を手に入れることに価値を感じるようになりました。ヨーロッパ人が欲しがるからです。こうしてインドでも金の価値が上がるようになっていきました。

誰もがいつも貨幣を欲しがるのは 、他の誰もがやはりいつも貨幣を欲しがるからで 、そのおかげで人は貨幣を出せば欲しいものや必要なものを何でも手に入れられる 。

言葉も考え方も違う人たちが貨幣の価値は認めているのは、貨幣が持つ「他の人が信頼しているものを信頼させるようにする」力によります。

貨幣は人類の寛容性の極みでもある 。貨幣は言語や国家の法律 、文化の規準 、宗教的信仰 、社会習慣よりも心が広い 。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち 、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め 、宗教や性別 、人種 、年齢 、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ 。貨幣のおかげで 、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも 、効果的に協力できる 。

今では硬貨や紙幣といったものも使わずに、データだけのやり取りで多くの取引がなされています。

しかし、便利な貨幣にも邪悪な面がありました。

それは、無機質な貨幣が、ときに人間らしい面を失わせることです。

「お金で買えないものこそ大事だ」、という話をよく聞きますが、現にお金で人が売り買いされていたり、金銭上の都合で伝統が壊されたり、お金を得るのに忙しくて人間関係がおろそかになるという問題が起きています。

あらゆるものが転換可能で 、信頼が個性のない硬貨やタカラガイの貝殻に依存しているときには 、各地の伝統や親密な関係 、人間の価値が損なわれ 、需要と供給の冷酷な法則がそれに取って代わるのだ 。

貨幣には 、さらに邪悪な面がある 。貨幣は見ず知らずの人どうしの間に普遍的な信頼を築くが 、その信頼は 、人間やコミュニティや神聖な価値ではなく 、貨幣自体や貨幣を支える非人間的な制度に注ぎ込まれたのだ 。

貨幣は寛容すぎるため、あらゆるものを結びつけてしまいます。そのことで親密な人間関係というデリケートなものが壊されてしまうことがあるんですね。

ですから、バランスが大事だといいます。外界には触れていけないクローズドで親密な面と、外に向かうべき普遍性のバランスです。

〈参照〉

「投資はギャンブルだ」と受け入れてしまえば勝率が上がる

「投資とは何か」を説明する定義はいくつかあるけれど、代表的な定義の一つは「投資とは、値段が上がるか下がるかを当てるゲームである。」というものだ。

投資はもともと「成長を支援する」目的で行われるものだけど、株、為替、商品に関わらず、価格が上がれば上がる方に投資した人は儲かり、価格が下がれば損をする。

価格が上がるか下がるかを当ててお金を稼ぐのは半丁博打も同じ、だから投資はギャンブルと同じである、というロジックだ。

そして、ギャンブルとしての投資で勝つために何をすれば良いのか、というのを語った本も多い。

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