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GINZA SIXに行ってきた!庶民によるレビュー

久しぶりの更新になります。ブログの方向性についてあれこれ考えていました。

もともとこのブログを書く目的の1つに「アクセス数」というものがあったのですが、アクセスを稼ごうと思うと不本意な記事も書かざるを得なくなり、本名でやっているのにもったいないなあと思っていました。

そこでこのブログには自分の書きたいことを書こうと思いました。アクセス稼ぎは別のブログでやってみたいと思います。

GINZA SIXに行ってきた

さて、今日は仕事帰りにリフレッシュのためGINZA SIXに行ってきました。

本日オープンです。

信号がど真ん中に入ってしまった。写真のクオリティにはご辛抱ください。

人がたくさんいました。中には着物姿でお越しの方も。

私はヨレヨレのスーツ姿。そして何も買ってませんw高いんだもの。

10年くらい前は毎日のように東京ドームシティ、ラクーアでブラブラしていました。仕事でくさくさした気持ちがすっと抜けるんですよね。

ウィンドウショッピング好きです。

東京ドームシティはエンターテイメント性の高い所でしたが、GINZA SIXも面白い造りになっていて、歩いているだけで楽しめます。

中に入ってまず目に飛び込んでくるのがこれ。

1階から5階まで吹き抜けになっていて、中央になんかがありました。

たぶん、クラゲ。

しかし周りの人はカボチャだと言っていました。

このクラゲを見ながら6階まで上がると、ツタヤがあります。

本屋というよりアート展みたいでした。

いつも読んでいるような庶民的な本が見つからねえw

攻殻機動隊のコーナーがありました。今やっている映画、面白いそうですね。

ツタヤは本を読みながらお茶ができるbook & cafeを展開していますが、ここにもありました。

奥に小さく見えるのがのスタバのメニューです。

写真の左っかわに写っているのは樹齢300年の松だそうです。

ライトが当たっていてきれい。しかしどれほどの価値なのかはよくわからない。とりあえず「すごい松」って思っておけば間違いない。

正月に、お菓子でできた松と本物の松を見比べて当てられるかって番組をやってましたが、この松は…お菓子に見えなくもない。

このフロアにはこんなスペースもあります。

大食堂と書いてあります。

デパートでいうところのフードコート的な立ち位置のスペースなのですが、なんか雰囲気違くね?

子どもが泣き叫んだり、小学生がアイスクリーム食べながら「うちの担任、マジムカつくの」と言っている感じではありませんでした。

この階の上、7階から12階はオフィスになっているそうです。銀座のど真ん中で働く、どうですか?

地下1階。化粧品売り場です。

多くの百貨店では狭いスペースに多くのブランドがひしめき合っているイメージですが、ここは広々していました。

展示会みたいな雰囲気がありますね。

地下2階は食品売り場。いわゆるデパ地下で、ここも一部展示スペースみたいになっています。

屋上にも行けます。銀座が一望できます。

写真ではわかりませんが、床を水が流れています。みんな「何だろう」と覗き込んだ後に片足をそっと出しては引っ込める、ということをやっていました。

眼下に銀座三越。遠くにはスカイツリーも。反対側には東京タワーが見えます。

まだ夜は肌寒いので人はまばらでしたが、座るところがたくさんあり、季節によっては休むのにちょうど良いかもしれません。

1階降りて13階は「レストラン街」って書いてあるんですが、大食堂と同じく、やっぱり思ったのと違いました。

ムーディーなんだけど。

子ども連れて歩けない雰囲気なんだけど。

回転寿司屋を探したんだけどなかったので退場。

夜ごはんは家でおそばを食べます。

おわりに

全体的に「見せる」「魅せる」というところにすごくこだわった造りになっていたGINZA SIX。ハイクオリティな感覚に触れることができますよ。

歴史を見てみると「多様性」というのは一過性のブームじゃないかという話

最近になって「多様性」という言葉をよく聞くようになりました。

それぞれの生き方が尊重されるのがとても良い反面、この言葉を使って「だから人の言うことは聞かない」と開き直ることができるのが諸刃の剣である言葉です。

まわりを見てみれば、以前よりいろんな人が増えたと確かに感じます。

でも実際には、人の頭の中にある色々な考えがインターネットをはじめとする技術の進歩で露わになっただけなのかもしれません。

実際、私の子供のころ、まだインターネットがない時代から、学校の先生は「人は心の中では何考えてるかわからないから気をつけろよ。」と言われていました。

考え方がいろいろあることがわかった近年ですが、その流れがこれからも続いてみんなそれぞれの道を行くのかというとそうではありません。

なぜなら、人類は大昔にはまったく交流さえできなかった時代から、だんだんと人が集まり、国ができて、世界共通の観念である貨幣や科学を使うようになる、という大きな目で見ればひとつになる方向で動いてきたからです。

その途中途中でバラバラになる、たとえば仏教やキリスト教が起こった後で様々な宗派に別れたり、イギリスがEUから脱退したりなど、ひとつになろうとする動きからの反動とも取れる動きもあります。

しかし、それは投資でいう上昇相場の中の調整局面で、本当に長いスパンで見れば人類は一つ向かって歴史が進んでいます。

あ、これは私の考えというより本の受け売りの知識なんですけどね。

だから、今「多様性」と思われている現象も、いずれひとつにまとまっていく流れになるのではないかなあという思いがしています。そしてそれはあまり穏やかではない方法による可能性もあります。

たとえば、過去にスペインがアステカ帝国を征服したり、イギリスが世界のあちこちを植民地化したように。

もちろん今は武力を使って侵略することは時代遅れでしょうが、他の方法で人を治めようとする動きはあってもおかしくありませんね。たとえばAIなんかまさにこれから脅威になってくるはずです。遠くに黒船見えてます。

だとしたら、「多様性」を盾にして自由気ままな生活はできませんね。そんなことをしていたら、いつかめちゃくちゃ強い征服者が攻めてくるだろうから。

地球上には異なる人間社会がいくつ存在したのだろう ?紀元前一万年ごろ 、この星には何千もの社会があった 。紀元前二〇〇〇年には 、その数は数百 、多くても数千まで減っていた 。一四五〇年には 、その数はさらに激減していた 。(中略)
その後三〇〇年間に 、アフロ ・ユ ーラシア大陸という巨人は 、他の世界をすべて吞み込んだ 。まず 、スペイン人がアステカ帝国を征服した一五二一年に 、メソアメリカ世界を取り込んだ 。(中略)
アフロ ・ユ ーラシア大陸という巨人が 、吞み込んだものをすべて消化するまでには数世紀かかったが 、この過程は逆転不可能だった 。今日 、人類のほぼ全員が同一の地政学的制度 (地球全体が 、国際的に承認された国家に分割されている )や 、同一の経済制度 (資本主義の市場勢力が 、地球上の最果ての地まで支配下に置いている ) 、同一の法制度 (少なくとも理論上は 、人権と国際法があらゆる場所で有効になっている ) 、同一の科学制度 (イラン 、イスラエル 、オ ーストラリア 、アルゼンチン 、その他どこの専門家であれ 、原子の構造あるいは結核の治療法について 、完全に見解を一にしている )を持っている 。

〈参考〉

考え方が違うと文章の書き方も変わる。日本と欧米の本を何冊か読み比べて感じたこと。

月額980円で本が読み放題のキンドルアンリミテッドが登場したり、本とカフェが一緒になった「book & cafe」ができたりと、最近はお金を使わなくても本が読みやすくなりました。

いろんな本をかじっていると思うのは、「日本と海外で文章の型が違うな」ということです。

実用書に限ると、洋書はとても「実例が多い」です。

筆者の主張に対して「こういった例がありますよ」というエピソードをこれでもかというくらいたくさん盛り込んできます。

それがたいてい実在の人物や組織で、日本人からしたら誰なのかわからない人も多いのですが、「彼らははじめはうまくいかなかったが、こういうことをしたらうまくいったのだ。」という成功体験がハリウッド映画仕込みの描写力でいくつも並べられていきます。

超具体的な例ばっかり連続して並べてくるので、真剣に読み続けていると頭が痛くなってきます。まるで肉ばっかボンボン出してくるようにすげーボリューミー。お腹いっぱい。

かたや日本の実用書には具体的な実例が並べられることがあまりありません。出てくるときも実名は伏されます。わりと低カロリーでヘルシーです。

なんでこうした違いが出るのかということを考えたのですが、日本は「人」が中心にあって欧米は「法」が中心にあるからなんだと、そうした根本的な考え方の違いがあるからなんだという結論に行き着きました。

日本では、何かの教訓を得る時、教訓からではなくて、人を中心にもってきます。

“人”を中心に持ってきてそこから「人生の教訓」だとか「生きる目的」といったものを“肌で感じる”ような作りになっています。

たとえば、『プロジェクトX』もそうだったし『情熱大陸』も、人を主題にして、視聴者はその人からいろいろなことを学ぶといった方法をとります。

欧米は逆で、“法”が先にきます。

先に「人生の教訓」「生きる目的」みたいなものを提示して、そこから同じ教訓で生きてうまくいった人を列挙していく。

こんな違いがあります。

面白いですね、考え方の違いで表現にも大きな違いが生まれます。

本を読みながら文化の違いを感じたので、記事にしてみました。

副業が容認されることで生まれる自由と責任について。為末大さんの話がとてもわかりやすかった

政府が会社の「モデル就業規則」というものを発表しています。そこでは今まで副業を「原則禁止」としていましたが、最近「容認」に変わりました。

会社に依らずにお金を稼ぐという流れがこれからも大きくなると思います。

このことのメリットとしては「自分がやった分だけ対価を得ることができる」という点です。今まで多くの会社で成果主義が取り入れられようとしてそれがうまくいかず、頑張ろうが頑張るまいがそれがダイレクトに給与に反映されるわけではないことが従業員のモチベーションに関わっていた面がありましたが、それが一気に解決されることになります。やったらやった分だけ自分がもらえるということです。どこまでもらえるかは自分がどこまでやるか次第なので、上限はありません。

これは同時にデメリットにもなります。

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日本経済を活性化させるために副業をどんどん推進したほうが良いと思う

数年前までは「副業は会社への忠誠心に関わるからやるな。」という意見が多数でしたが、しだいに考え方が変わってきています。

副業、社員の力アップ | 日本経済新聞

正社員の副業後押し 政府指針、働き方改革で容認に転換 | 日本経済新聞

私たちは将来年金がもらえるか分からない世代なので「副業やるな」と言う意見には正直困っていました。

本業をもっと真面目にやればいいじゃないのという意見はあると思いますが、現場から言わせてもらうとそれができない人の数はかなり多いと思います。

日本人は一人当たりの生産性が低いというデータが出ていますが、その意味していることは一人一人の能力が職場で十分に発揮されていないということです。

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高尾山頂から見える、富士山の上に日が沈む『ダイヤモンド富士』を鏡餅のようだと思っていた件

唐突に山に行きたくなる時があります。

「そうだ、山登ろう」ぐらいの勢いでなんの支度もせずに1000円だけ持って外に出てしまいます。

なぜなら、東京には高尾山があるからです。

新宿から京王線で1時間弱、世界で最も登山客が多い高尾山の麓に着きます。

交通費がバカ安い上、大人の足なら1時間で登れる標高599mの小さな山。半日で手軽に自然を味わえるスポットです。

年末のこの時期に是非見ておきたいのが、「ダイヤモンド富士」です。

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うまくいかない時の処世術を株式投資から学ぶ

何かをやるとき、うまくいく時とうまくいかない時があります。

うまくいく時は続けてうまくいくし、うまくいかない時はいくらやってもだめです。なぜかはわかりません。

うまくいく時を「右肩上がり」ということがありますが、やればやるほど成長を感じられます。

逆にうまくいかないときはちっとも前に進みません。ちょっと上がったと思ったら下がって、下がったと思ったら上がっての繰り返しです。

これが順番にやってくるのが普通です。

まさに「山あり谷あり」。人生は難しいです。

この図を頭に思い浮かべたときに、私はお金が好きなので「株式チャートと同じだ」と思いました。

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うまい文章とはわかりやすい文章ということ。わかりやすいとはイメージしやすいということ。

文章を書く目的は“記録”と“伝達”です。記録は後々誰かが読むために行うものなので、広義には伝達に含まれます。つまり、文章を書くのは「伝えるため」であるといえます。

ですから、文章を書く上で一番大切なことは「伝わっているか」ということで、うまい文章とは伝わる文章のことをいいます。

よく伝わる文章ということは、相手にわかりやすい文章ということです。

さらにいうなら、わかりやすいということは具体的なイメージが相手の頭の中に作られる文章だということができます。

イメージを沸かせるには表現に矛盾があってはいけません。それにプラスして、表現が豊かである必要があります。様々な表現を使って、あの人にもこの人にもわかるように、そして飽きないように言葉を選ぶ必要があります。

だからどう表現するかが大事です。人間は論理的な理解に加えて抽象的な理解もするので、矛盾のない表現に加えて表現力といったものが必要になってきます。

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AI時代の人間の役割。AIができることとできなそうなこと。

国会答弁の下書きをAIで行おうという試みが経済産業省で始まっています。

AIが国会答弁下書き 経産省が実証実験 |日本経済新聞

国会答弁はある程度やりとりの型が決まっているためAIが使えるのだと思いますが、それにしても「機械で人間が楽をする」流れが家事や仕事にとどまらず対話にまで及んできたのは驚きですね。

今までも対話するAIはありました。しかしそれはiPhoneの音声アシスタント『siri』のようにあくまでも遊びの範疇でした。しかしいよいよ人間の仕事をAIが奪う段階になっていることを実感させます。

国会答弁もAIがやってしまうのだとしたら、このままいくと人間との対話は必要なくなるのだろうか、私みたいなコミュ障は完全に表舞台から姿を消すしかないのではないか、という考え方もできますが、AIはあくまでもツールでありアシスタントの立場は変わらないだろう言われています。

だから現実的に考えれば、AIを対話で活用するシーンとしては、たとえば外国でどう言ったらいいかわからない時に翻訳ソフトを使うように、AIに「こんなシーンではどう言ったらいいの?」と聞けばヒントをくれる、そういう希望的な未来になるんじゃないかと思います。むしろコミュ障の助けになる気がしています。

もちろん悪用する人も出てくるでしょう。たとえば「自動オレオレ詐欺」とか「自動LINE乗っ取り」はどうでしょう。ランダムにメッセージを送りまくって対話を進め、お金の要求まで自動でやってくれるAIです。

…今適当に思いついたけどリアルに起こりそうで自分でビビりました。もしそうなったら電話やSNSを使う際は本人確認が必要になるかもしれません。指紋とか静脈とか。

いくらAIが発達しても人間のほうが賢い

良くも悪くもAIは発達していくでしょうが、どれだけ賢くなったところでAIをコントロールする権限を人間が握れるような体制作りを人間自身がするということには変わりません。なぜなら、人間にはプライドがあるから。

昔、産業革命が進んだ時代には力が必要な仕事を機械が代わるようになり、機械が人間の仕事を奪いました。しかし人間は頭を使った仕事をメインにするようにシフトし、うまく機械を治めました。

同じように、これからは頭を使ってする仕事も機械がやるようになるわけだから、人間はまた別の方向にシフトしてうまくAIを治めなければなりません。

じゃあ何をしたらいいんだと考える上で参考にしたいのが将棋棋士の羽生善治さんの言葉です。将棋の世界では人間よりAIの方が強くなりつつあり、そうしたAIについて考えざるをえない状況の中で羽生さんは「人間にあってAIに無いのは“本能”、“センス”、“一貫性”」だと言います。

中島:なぜ、コンピュータには「今までになかった斬新な指し手」が打てるのでしょうか?

羽生:たぶんそれは、「人間の持っている防衛本能」が、そういう手を選ぶのを避けてきたんだと思います。

中島:防衛本能ですか。

羽生:たとえば、生き残るとか、生き延びるために、必要な感覚とかセンスとか選択みたいなものがあって、もちろん将棋をやるときも、それを使っています。けれど、プログラムには、別にそういうものはないから……ある種、自由なので。

(中略)

羽生:あとは、美的センスに合わないケース。人間の「これが心地よく感じる」とか「美しく感じる」っていう感覚とは、合わないようなことがあります。

中島:確かに、たぶん囲碁でも同じだと思うんですけど、人間は、脈絡を持って打ちますよね。しかし、今のコンピュータは、一局面ごとに再判断を始めるので、流れがない。

羽生:継続性や一貫性に、人間は慣れ親しんでいると思います。

中島:コンピュータは、一回、一回、リセットして、そこから毎回、始まります。アルファ碁でも、与えられた盤面の次の一手を学習していきますから、どういう流れでその局面にきたのかは、全く関係ない。人間の棋士の思考法とは根本的にちがう仕組みで打っていますからね。

AIにはできなそうなこと

AIを理解した上で人間にしかできなそうなことを考えてみました。

ビジョンを持つ

AIは目の前の課題に対する処方を探し出すことには優れていますが、大きな目標を持つことはできません。

たとえば「海賊王に、俺はなる!」といったような目標はデータから導き出されるものではなく、人間の心に何かの感動があってはじめて持つことができるものです。ロックな言い方をするなら「ハートが燃える」ときに目的は生まれるので、AIには意味不明だろうと思います。

目標ができるとそれに従って人間の行動は変わります。AIをどう利用するかも変わってくるということです。

工業化が進んだ時代には、ある人は機械で車を作ろうという目標を立て、ある人は機械で家電を作る目標を立てて実現してきました。そしてなんのビジョンもない人はチャップリンの「モダン・タイムス」が如く機械の奴隷のようになって働きました。今の時代も同じで「AIが人間の仕事を奪いAIが人類を管理する」といったSFが万が一実現するとしたらそれは人間が何の目標も持たない時だろうと思います。AIの奴隷にならないためには、“AIを利用して何をするのか”、今よりもう少し大きなビジョンを持つことが必要です。

笑わせる

「意味不明な回答をする」という天然系の笑いはsiriが得意としていましたが、「言い得て妙」といった笑いを作ることはAI自身にはできないと、M-1を見て切実に感じました。ちなみに私は和牛のネタが一番好きです。

笑いは一般常識をわきまえた上でそこから少しズレる「ボケ」とそこに「ツッコミ」を入れてギャップを生み出すことで成り立ちますが、AIにその絶妙な機微が理解できるとは思えません。下手をするとボケはただの馬鹿だしツッコミはただの暴力ですから、そうならない繊細なバランス感覚から生まれる「笑い」というものをデータから導き出すのは不可能だと思います。

思いやる

「ツーカー」「あうんの呼吸」「以心伝心」的なのはAIには無理だと思います。人は言葉以外に様々な情報を得てコミュニケーションを取っていますが、AIは「今現在相手はどう考えているか」は理解しようとせず、理解するのだとしても「脈が速いから緊張している」とか「瞳孔が開いているから興味を持っている」といった程度のもので、真の意味でのコミュニケーションは難しいと思います。

たとえば、ある人がプールに入ろうとしていてこう言ったとします。

「押すなよ!ゆっくり入るんだから、絶対押すなよ!」

この言葉が「ゆっくり入るから押してはならないという警告」なのか「押してくれというフリ」なのか、AIには判断がしにくいと思います。言葉で「押すな」と言いながら「押せ」という指示なのかどうかを、人間だったらその場の雰囲気や声のトーン、これまでの会話の流れ、目配せ、相手との関係性などから判断しますが、AIにはこうしたノンバーバルコミュニケーション(非言語コミュニケーション)はできません。AIがダチョウ倶楽部を理解する日は永久に来ないと思います。

個性を持つ

AIはあらかじめ設定されたキャラクターを演じることはできますが、複雑な個性は身につかないと思います。人がどういう体験をし、それをどう感じ、どう対処し、現在どうなっていて、未来にどうしていこうとしているのか。そういった一貫性を持った生き生きしたストーリーは人間にしか体験できないし作ることもできません。みんな自分の人生をもっと大事にしたらいいと思うよ。

おわりに

ビジョンとかハートとか思いやりとか、今までは「クサい」と思われがちで実践するのがいろんな事情で困難だったことが、これからは大事になるのではないかと思います。

医療情報サイトは免責事項を明記すべきだと、WELQの件をみて思う

インターネットの情報の接し方についての話。

医療情報サイトの記事内容に信ぴょう性がないってことでサイトが一時非公開になっています。

問題になっているのはDeNAが運営する「WELQ」というサイトです。

健康関連の情報についてネットで調べると必ずと言っていいほど目にするサイトで、私も「午後の眠気問題」に悩んでいた時にいくつか記事を読んで参考にしていました。

それだけSEOに強い(検索対策が施されている)サイトだったというわけですが、SEOに強いことと記事の内容の信憑性があることは関係がありません。

Googleはサイトの評価基準の一つに「専門家が書いていること」を挙げていますが、書いてるのが専門家なのかどうかを判断することは簡単ではありません。

WELQの場合、多くの記事は確かに納得のいくものでしたが、中には「肩こりは幽霊のせい?」なんて記事もあるそうです。

それで「なんやこれ!」と思った方が調べたら記事を書いてるのは実はアルバイトの方で、あちこちの医療系サイトから情報をつぎはぎして書けとDeNAから指示を受けていたということが明らかになりました。

この「パクり」問題と「情報の信憑性」問題によってWELQは炎上。DeNAは情報の信憑性を担保できる体制が整うまでサイトを非公開にすることを決めました。

これを見て私は、「けしからん。俺は小学生の時に横浜大洋ホエールズの帽子を持ってたくらい少し好きだったのに。」と憤るとともに、ネットの情報に正確性を期待することは間違っていると思いました。ネットはファンを作るのには向いていますが情報の正確性という点ではまだまだです。

私が今年のはじめに膝を痛めた時もそうでした。「膝 痛み」で調べるとまずWELQの記事がヒットします。その下にはお医者さんが書かれたサイトも出てきます。

そのどれを読んでも、私が経験した膝の痛みの原因は「変形性膝関節症」だったんです。

「俺は変形性膝関節症なんだ」と確信して慌てて病院に行ったら「案ずるな、ただの捻挫だ。」と言われ、その通り二週間ほっといたら完治しました。

特に医療に関して、ネットの情報を鵜呑みにするのは間違いであることが多いと思っといたほうが良いです。

症状とそれに対する感じ方は一人一人違うので、本来は医者と一対一で診察して解決するのが医療です。それと誰もが同じ情報を得られるネットは相性が良くありません。たとえお医者さんが書いた記事であったとしても、です。

先日健康診断に行きました。結果を教えてもらった最後に、お医者さんはこう言いました。

「ま、この程度の健診では何もわからないんだけどね。」

身も蓋もないことを言われてしまいましたがそれが真実でしょう。頑張ってバリウム飲んだし注射も我慢したけれど、大きな病気が隠れているリスクは0にはなりません。

健診受けて体のあちこちを調べても健康の確信は持てないのだから、ましてやネットの情報で健康状態を断定することなどできないでしょう。

読む方はそれをわかって参考程度に読むリテラシーがないといけないし、書く方は何をネットに書くにしても、最後には「この情報だけで断定はできないからちゃんと病院行ってね」というスタンスを持つべきだろうと思います。そうしたら情報提供者側にとっても成約につながるからいいんじゃないですかね。

金融系のサイトには必ず免責事項「このサイトの情報には万全を期していますが正確性を保証するものではありません。」信じて損したって知らねえよっていうのが書いてありますが、そういったのを医療系サイトにも適応させるべきなのではないかなあと思います。