『君主論』はリーダー論の古典だといわれています。
そこで「リーダーとはなんだろう」という期待をもって読んでみたのですが、イメージと大きく違っていました。
というのは、著者のニッコロ・マキャベリが、ドナルド・トランプも真っ青になるほど暴言を連発しているからです。
この本は、確かに「リーダーになるためにはどうしたら良いか」に特化した内容となっています。
特化したがゆえ、目的のためには手段を選びません。
つまり、善悪について判断をしません。
なぜなら、善が、人の上に立つには害となることがあるからです。
というのは、全体的によくよく考えてみれば、たとえ美徳と見えても、これをやっていくと身の破滅に通じることがあり、たほう、一見、悪徳のようにみえても、それを行うことで、みずからの安全と繁栄がもたらされるばあいがあるからだ。p92
この本ではむしろ、「民衆が悪いことをしてるなら、そのリーダーになるためには自分も悪いことをする必要がある。」とさえ言っています。
あなたが君位を守るうえで、味方にする必要ありと判断した人民、兵士、貴族とかの集団が、もし腐敗していれば、あなたも、彼らの気持を満たすために、その気風に染まらざるをえないのだ。となれば、このばあい、善行があなたの仇になる。p114
善い行いをすると公言する人間は、よからぬ多数の人々のなかにあって、破滅せざるをえない。したがって、自分の身を守ろうとする君主は、よくない人間にもなれることを、習い覚える必要がある。そして、この態度を、必要に応じて使ったり、使わなかったりしなくてはならない。p91
こうした意見の根底には、「人間はみんな悪い」といった性悪説的な考えがあります。
人はやむをえない状況から善人になっているわけで、そうでもなければ、きまってあなたにたいして、邪になるものだ。p139
そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだと。p98
この教えは、人間がすべてよい人間ばかりであれば、間違っているといえよう。しかし、人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたのほうも、他人に信義を守る必要はない。p103
中世イタリアの混沌とした世情がこのような考えを生んだのかもしれないし、マキャベリの不遇な生涯が思想を鍛えたのかもしれません。
いずれにしても、こうした本が数百年たった今も読まれ続けています。
ということは、いつの時代も似たような状況にあるのだといえるのかもしれません。
理想論ではなく、思い通りにならない現実の世の中で、リーダーであり続けるためにどうすれば良いかが考え抜かれた本です。
しかし、わたしのねらいは、読む人が役に立つことを書くことであって、物事について想像の世界のことより、生々しい真実を追う方がふさわしいと、わたしは思う。p90
古典だし、会社の社長なんかが読むべき本のように思われますが、暴走族のリーダーも、ヤクザのリーダーも読めば役に立つことうけあいです。
少し中身をのぞいてみましょう。