普段何気なく使っている日本語。何となく相手に伝わっているようで、けっこう相手も意味がわかってないのに「あはは、そうだよねー」と返事を返してくれている、日本語。
言葉がわかりにくい理由の一つは、その順番にあります。
普段何気なく使っている日本語。何となく相手に伝わっているようで、けっこう相手も意味がわかってないのに「あはは、そうだよねー」と返事を返してくれている、日本語。
言葉がわかりにくい理由の一つは、その順番にあります。
ブログは記事の一つ一つが建物の材料のような役割を果たし、メディアという大きな不動産を生み出します。不動産ができたらそこに人を集めるなりビジネスをするなり可能性が広がります。
だから記事がたくさんあることがメリットになるのですが、私たちの時間は有限です。一つの記事にたくさん時間をかけたい気持ちはあってもそうしてばかりもいられません。
モチベーションとは何であるかを一言で説明すると、行動する力です。
これを強くして保つことが成功するためには欠かせませんが、その方法は確立されていません。本やネットでさまざまなモチベーションアップの方法が紹介されているものの、今なお研究中の段階です。
モチベーションがあれば、生活の質が上がります。やろうと思っていることがあってそれに積極的に取り組んでいる状態は生活が充実しているということの証拠です。
これは言い換えるなら、自分の人生を自分が支配しているということです。
あけましておめでとうございます。
新しい年を迎え、目標も新たに歩んでいきたい矢先に思い返すのは去年の元旦。
私が2016年のはじめに立てた目標はその後どうなったかというと、およそ3日で忘れ、残りの362日があっという間に過ぎていったのであります。
政府が会社の「モデル就業規則」というものを発表しています。そこでは今まで副業を「原則禁止」としていましたが、最近「容認」に変わりました。
会社に依らずにお金を稼ぐという流れがこれからも大きくなると思います。
このことのメリットとしては「自分がやった分だけ対価を得ることができる」という点です。今まで多くの会社で成果主義が取り入れられようとしてそれがうまくいかず、頑張ろうが頑張るまいがそれがダイレクトに給与に反映されるわけではないことが従業員のモチベーションに関わっていた面がありましたが、それが一気に解決されることになります。やったらやった分だけ自分がもらえるということです。どこまでもらえるかは自分がどこまでやるか次第なので、上限はありません。
これは同時にデメリットにもなります。
数年前までは「副業は会社への忠誠心に関わるからやるな。」という意見が多数でしたが、しだいに考え方が変わってきています。
正社員の副業後押し 政府指針、働き方改革で容認に転換 | 日本経済新聞
私たちは将来年金がもらえるか分からない世代なので「副業やるな」と言う意見には正直困っていました。
本業をもっと真面目にやればいいじゃないのという意見はあると思いますが、現場から言わせてもらうとそれができない人の数はかなり多いと思います。
日本人は一人当たりの生産性が低いというデータが出ていますが、その意味していることは一人一人の能力が職場で十分に発揮されていないということです。
唐突に山に行きたくなる時があります。
「そうだ、山登ろう」ぐらいの勢いでなんの支度もせずに1000円だけ持って外に出てしまいます。
なぜなら、東京には高尾山があるからです。
新宿から京王線で1時間弱、世界で最も登山客が多い高尾山の麓に着きます。
交通費がバカ安い上、大人の足なら1時間で登れる標高599mの小さな山。半日で手軽に自然を味わえるスポットです。
年末のこの時期に是非見ておきたいのが、「ダイヤモンド富士」です。
何かをやるとき、うまくいく時とうまくいかない時があります。
うまくいく時は続けてうまくいくし、うまくいかない時はいくらやってもだめです。なぜかはわかりません。
うまくいく時を「右肩上がり」ということがありますが、やればやるほど成長を感じられます。
逆にうまくいかないときはちっとも前に進みません。ちょっと上がったと思ったら下がって、下がったと思ったら上がっての繰り返しです。
これが順番にやってくるのが普通です。
まさに「山あり谷あり」。人生は難しいです。
この図を頭に思い浮かべたときに、私はお金が好きなので「株式チャートと同じだ」と思いました。
文章を書く目的は“記録”と“伝達”です。記録は後々誰かが読むために行うものなので、広義には伝達に含まれます。つまり、文章を書くのは「伝えるため」であるといえます。
ですから、文章を書く上で一番大切なことは「伝わっているか」ということで、うまい文章とは伝わる文章のことをいいます。
よく伝わる文章ということは、相手にわかりやすい文章ということです。
さらにいうなら、わかりやすいということは具体的なイメージが相手の頭の中に作られる文章だということができます。
イメージを沸かせるには表現に矛盾があってはいけません。それにプラスして、表現が豊かである必要があります。様々な表現を使って、あの人にもこの人にもわかるように、そして飽きないように言葉を選ぶ必要があります。
だからどう表現するかが大事です。人間は論理的な理解に加えて抽象的な理解もするので、矛盾のない表現に加えて表現力といったものが必要になってきます。
国会答弁の下書きをAIで行おうという試みが経済産業省で始まっています。
国会答弁はある程度やりとりの型が決まっているためAIが使えるのだと思いますが、それにしても「機械で人間が楽をする」流れが家事や仕事にとどまらず対話にまで及んできたのは驚きですね。
今までも対話するAIはありました。しかしそれはiPhoneの音声アシスタント『siri』のようにあくまでも遊びの範疇でした。しかしいよいよ人間の仕事をAIが奪う段階になっていることを実感させます。
国会答弁もAIがやってしまうのだとしたら、このままいくと人間との対話は必要なくなるのだろうか、私みたいなコミュ障は完全に表舞台から姿を消すしかないのではないか、という考え方もできますが、AIはあくまでもツールでありアシスタントの立場は変わらないだろう言われています。
だから現実的に考えれば、AIを対話で活用するシーンとしては、たとえば外国でどう言ったらいいかわからない時に翻訳ソフトを使うように、AIに「こんなシーンではどう言ったらいいの?」と聞けばヒントをくれる、そういう希望的な未来になるんじゃないかと思います。むしろコミュ障の助けになる気がしています。
もちろん悪用する人も出てくるでしょう。たとえば「自動オレオレ詐欺」とか「自動LINE乗っ取り」はどうでしょう。ランダムにメッセージを送りまくって対話を進め、お金の要求まで自動でやってくれるAIです。
…今適当に思いついたけどリアルに起こりそうで自分でビビりました。もしそうなったら電話やSNSを使う際は本人確認が必要になるかもしれません。指紋とか静脈とか。
良くも悪くもAIは発達していくでしょうが、どれだけ賢くなったところでAIをコントロールする権限を人間が握れるような体制作りを人間自身がするということには変わりません。なぜなら、人間にはプライドがあるから。
昔、産業革命が進んだ時代には力が必要な仕事を機械が代わるようになり、機械が人間の仕事を奪いました。しかし人間は頭を使った仕事をメインにするようにシフトし、うまく機械を治めました。
同じように、これからは頭を使ってする仕事も機械がやるようになるわけだから、人間はまた別の方向にシフトしてうまくAIを治めなければなりません。
じゃあ何をしたらいいんだと考える上で参考にしたいのが将棋棋士の羽生善治さんの言葉です。将棋の世界では人間よりAIの方が強くなりつつあり、そうしたAIについて考えざるをえない状況の中で羽生さんは「人間にあってAIに無いのは“本能”、“センス”、“一貫性”」だと言います。
中島:なぜ、コンピュータには「今までになかった斬新な指し手」が打てるのでしょうか?
羽生:たぶんそれは、「人間の持っている防衛本能」が、そういう手を選ぶのを避けてきたんだと思います。
中島:防衛本能ですか。
羽生:たとえば、生き残るとか、生き延びるために、必要な感覚とかセンスとか選択みたいなものがあって、もちろん将棋をやるときも、それを使っています。けれど、プログラムには、別にそういうものはないから……ある種、自由なので。
(中略)
羽生:あとは、美的センスに合わないケース。人間の「これが心地よく感じる」とか「美しく感じる」っていう感覚とは、合わないようなことがあります。
中島:確かに、たぶん囲碁でも同じだと思うんですけど、人間は、脈絡を持って打ちますよね。しかし、今のコンピュータは、一局面ごとに再判断を始めるので、流れがない。
羽生:継続性や一貫性に、人間は慣れ親しんでいると思います。
中島:コンピュータは、一回、一回、リセットして、そこから毎回、始まります。アルファ碁でも、与えられた盤面の次の一手を学習していきますから、どういう流れでその局面にきたのかは、全く関係ない。人間の棋士の思考法とは根本的にちがう仕組みで打っていますからね。
AIを理解した上で人間にしかできなそうなことを考えてみました。
AIは目の前の課題に対する処方を探し出すことには優れていますが、大きな目標を持つことはできません。
たとえば「海賊王に、俺はなる!」といったような目標はデータから導き出されるものではなく、人間の心に何かの感動があってはじめて持つことができるものです。ロックな言い方をするなら「ハートが燃える」ときに目的は生まれるので、AIには意味不明だろうと思います。
目標ができるとそれに従って人間の行動は変わります。AIをどう利用するかも変わってくるということです。
工業化が進んだ時代には、ある人は機械で車を作ろうという目標を立て、ある人は機械で家電を作る目標を立てて実現してきました。そしてなんのビジョンもない人はチャップリンの「モダン・タイムス」が如く機械の奴隷のようになって働きました。今の時代も同じで「AIが人間の仕事を奪いAIが人類を管理する」といったSFが万が一実現するとしたらそれは人間が何の目標も持たない時だろうと思います。AIの奴隷にならないためには、“AIを利用して何をするのか”、今よりもう少し大きなビジョンを持つことが必要です。
「意味不明な回答をする」という天然系の笑いはsiriが得意としていましたが、「言い得て妙」といった笑いを作ることはAI自身にはできないと、M-1を見て切実に感じました。ちなみに私は和牛のネタが一番好きです。
笑いは一般常識をわきまえた上でそこから少しズレる「ボケ」とそこに「ツッコミ」を入れてギャップを生み出すことで成り立ちますが、AIにその絶妙な機微が理解できるとは思えません。下手をするとボケはただの馬鹿だしツッコミはただの暴力ですから、そうならない繊細なバランス感覚から生まれる「笑い」というものをデータから導き出すのは不可能だと思います。
「ツーカー」「あうんの呼吸」「以心伝心」的なのはAIには無理だと思います。人は言葉以外に様々な情報を得てコミュニケーションを取っていますが、AIは「今現在相手はどう考えているか」は理解しようとせず、理解するのだとしても「脈が速いから緊張している」とか「瞳孔が開いているから興味を持っている」といった程度のもので、真の意味でのコミュニケーションは難しいと思います。
たとえば、ある人がプールに入ろうとしていてこう言ったとします。
「押すなよ!ゆっくり入るんだから、絶対押すなよ!」
この言葉が「ゆっくり入るから押してはならないという警告」なのか「押してくれというフリ」なのか、AIには判断がしにくいと思います。言葉で「押すな」と言いながら「押せ」という指示なのかどうかを、人間だったらその場の雰囲気や声のトーン、これまでの会話の流れ、目配せ、相手との関係性などから判断しますが、AIにはこうしたノンバーバルコミュニケーション(非言語コミュニケーション)はできません。AIがダチョウ倶楽部を理解する日は永久に来ないと思います。
AIはあらかじめ設定されたキャラクターを演じることはできますが、複雑な個性は身につかないと思います。人がどういう体験をし、それをどう感じ、どう対処し、現在どうなっていて、未来にどうしていこうとしているのか。そういった一貫性を持った生き生きしたストーリーは人間にしか体験できないし作ることもできません。みんな自分の人生をもっと大事にしたらいいと思うよ。
ビジョンとかハートとか思いやりとか、今までは「クサい」と思われがちで実践するのがいろんな事情で困難だったことが、これからは大事になるのではないかと思います。